宮津城

別名 鶴賀城
    舞鶴城
付近住所 京都府宮津市鶴賀 現在−
2009/5/4 案内板アリ 日本城郭大系


細川氏

京極高知→
京極高広→
京極高国 
改易

天領

淀藩
永井尚征→
永井尚長 
改易

岩槻藩より
阿部正邦→
宇都宮藩へ

宇都宮藩より
奥平昌成→
中津藩へ

飯山藩より
青山幸秀→
青山幸道→
郡上藩へ

浜松藩より
本庄
松平資昌→
松平資尹→
松平資承→
松平宗允→
松平宗発→
松平宗秀→
松平宗武 
織田信長の命で丹後を領した細川氏(幽斎、忠興)は、天正8年(1580)8月宮津に入り急いで浜手新城、更に城下の建設を進めた。慶長5年(1600)忠興が会津上杉征討に出陣中、大坂方は丹後に兵をむけたので、幽斎は宮津城を自焼して、田辺(舞鶴)に籠城した。関ヶ原戦後、忠興は豊前中津に移封、後へ京極高知が入部して、田辺を居城とした。元和8年(1622)その没後、丹後を3分して嫡子高廣が宮津城主となった。彼は十数年を費やして城郭、城下を整備したがその際、細川氏時代の縄張がどの程度、踏襲されたかは明らかではない。昭和55年、二の丸東門(外不明門)北方の第一次調査(京都府教育委員会)に続いて宮津市教育委員会は同11月及び56年3月に本丸東門(内不明門)、二の丸東門付近の第二次調査を実施した。その結果、二の丸東門の外に三の丸に通じる土橋の他・内堀石垣・二の丸の水道と思われる石組み・溝等の遺構を検出した。

旧宮津城を偲ぶ
 近世宮津城は、天正8年(1580)細川氏(藤孝・忠興)の入国築城にはじまり、次いで入国した京極氏が藩主高広の代に拡張・完成した。細川城の竣工はその入国1、2年の後とみられ、京極城の完成は寛永年間と伝えている。京極城の城縄張は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備え、古絵図等により、今の町割にほぼ対比させることができる。細川城の規模はよくわからないが、少なくとも本丸部分の縄張は重なりあう部分が多いと推測される。
 左後方の巨石は、この南方80メートル余りのところにあった本丸入口くろがね門の袖石垣の一つである。その前のくぼみのある石は大手橋橋脚の礎石、その左の横にある波状の石柱はこの北側波止場の船つなぎ石である。現存する宮津城構築物としては、この南方10メートルのところに本丸北部石垣の一部が地上に顔を出している程度である。しかしながら、地下にはかつての宮津城を偲ぶことが出来る石垣等の構築物が今も遺存し、発掘調査によりその様相をうかがい知ることができる。当地は宮津城北西部の二ノ丸地内である。